石井院長コラム|あしあと(FOOTPRINTS)

 

石井院長コラム

あしあと(FOOTPRINTS)

Footprints in the Sand — Margaret F. Powers


石井院長

信仰・孤独・人生の試練

マーガレット・F・パワーズ

今日は宗教的な話をします。
あなたは神とか仏、創造主とか守護霊など、信じたり、関心を持つことがあるでしょうか。

人間、絶好調の時はまず、神仏のことなんか考えることはありません。むしろ、神様、仏様を信じている人のことを、馬鹿にすることすらあります。ところが、いざ調子が悪くなり、何か悩み事ができようものなら、急に、神の力にすがり付きたくなります。まずは、近くの神社に行くでしょう。足早に参道を通り、めざす拝殿にたどりつくと、財布から、おもむろに100円玉をとりだし、それを賽銭箱に投げ入れます。

「神様、ここだけの話ですが、妻にも子供にも内緒で1億円の借金を作ってしまいました。もう、どうにもなりません。誰も助けてはくれません。神様だけが頼りです。どうぞ、今月末までに返せますよう、ご加護のほど、よろしくお願いします」

と、何度も頭を下げ、しつこいくらい、時間をかけてお祈りします。それを隣で見ていたおじさんが、

「あんた、1億円とかなんとか聞こえてたけど、そんなん頼むなら、せめて10万ぐらい出したらどや。そのくらい出さんと、神さん聞いてくれへんで」

お金のことを神様に頼むのも、どうかと思いますが、賽銭箱に入れる金額が多いほど、願いがかないやすくなる…なんて勘違いしている人、結構多いようです。お金をどれだけ積もうが積むまいが、儲かるのは神主さんとその家族だけです。断言しますが、そういう願い事で神様が動く、なんてことはありません。

しかし、こうして、わざわざ神社まで来て願をかけるというのは、願をかける本人たちの精神状態が、健康な場合なので、笑ってみてられます。本当に窮地に追い込まれたとき、本当に落ち込んでいるようなときには、神社に行こうという気も起らなくなります。友達や家族が助けになってくれようとしますが、うまく意思疎通がとれなかったりする。そのような時、悩める人の頭の中をのぞいてみると、悩み事が暴れ馬のごとく駆け巡っていて、それで頭の中がいっぱいの状態です。もはや、外から何も取り入れることができなくなっています。どんなに徳の高いお坊さんが話をしてくれても、何の役にもたたない。もし神様がいて、助けようとしてくれても、このような状態では、もうどうにもならない。外の世界との接点を自ら遮断してしまい、強い孤独の世界の住人になってしまっているのですから。

もちろん、誰だって、人生の中で、いろいろな苦難に見舞われることがあります。しかし、そのほとんどは、後から振り返ってみると、とるに足らないこと。「あの時、なんであんなことで悩んでいたのかな」なんて思えるのが大半です。そして、たいていは、誰かの助けがあったりして、その窮地を抜け出すことができます。しかし、後から思い出しても、強烈につらく悲しかった時…というのも確かにあります。いわゆる"人生の試練"と言われるものです。決して多くはありません。しかし、誰でも一生の中で何度かは、そういったことを経験することになっています。結局、それらも乗り越えてきたから、今のあなたがいるわけですが···。少なくとも、強烈な悩みの真っただ中にある間、当事者は孤独の世界から抜け出せず、しかも、それが"自ら作った孤独"であることすら、気づかなかったりするのです。

以下は、欧米のある人が旅行した時に、お土産屋さんで売られていた盾に刻まれていた一編の詩として、紹介されていたものです。私がそれを読んだのは30年以上前で、当時は作者不明とされていましたが、最近、作者がわかったようです(カナダ人のマーガレット・F・パワーズのいう方とのこと)。

信心深いキリスト教信者であれば、「いつもあなたは神に見守られている」「どんなつらい時も神はあなたとともにいる」と教えられ、そう信じているものです。しかし、先にも言いましたが、人生の中で何度かは、とてもつらく、悲しい出来事に巻き込まれるときがある。そのようなときは、いかに信心深いキリスト教信者であろうと、神の救いなど、とても信じられない。世界には自分一人きり。自ら作った孤独の世界で煩悶するものです。

この詩の背景には、キリスト教があります。我々はキリスト教徒ではないので、彼らとは、受け止め方が異なるかもしれません。しかし、そこに、あなたなりの何か感じるものが、あるかもしれません。紹介します。

「あしあと(FOOTPRINTS)」

 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、神様とともに、海岸の
 砂浜を歩いている。
 見上げるとそこは暗い夜空。
 その夜空にとても大きなスクリーン
 がある。
 そこに、これまでのわたしの人生が
 次々と映し出されていた。
 気が付いてみると、そのどの場面
 にも、砂の上にふたりの"あしあと"
 が残されていた。
   ひとつはわたしの"あしあと"、
   もう一つは神様の"あしあと"。
 しばらくして、これまでの人生の
 最後の場面が映し出された。
 その時、映された砂の上に残された
 "あしあと"に目が留まった。
 そこには、一つの"あしあと"しか
 なかったから。
 それは、わたしの人生で、いちばん
 つらく、悲しい時だった。
 このことが、わたしは気になって、
 仕方なかった。
 それで、わたしは意を決し、神様に
 尋ねることとした。
 「神様、わたしがあなたに従う、
  と決心したとき、
  あなたは、いつだって、わたし
  とともに歩み、わたしとともに
  いる、と約束されました。
  それなのに、
  わたしの人生の、いちばんつらい時
  にかぎって、ひとりの"あしあと"
  しか、ありませんでした。
  いちばんあなたを必要とした時、
  あなたが、なぜ、わたしを見捨て
  られたのか、わたしには、
  わかりません。」
 神様は、それに答えられた。
 「わたしの大切な子よ。
  わたしは、おまえを愛している。
  おまえを決して、見捨てたりは
  しない。ましてや、
  つらく、悲しい時などに···。
  あの"あしあと"、
  それがひとつだったのは、
  それは、私の"あしあと"。
  おまえを背負って歩いた、
  その時の"あしあと"なのだよ」

   作:マーガレット・F・パワーズ
    ※英語の原文はインターネット
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