病棟のエレベータ
A quiet farewell at the elevator
入院患者さんについてはこれまで多くの方をみてきました。元気になって退院されていくのをみると、医療者として、とてもうれしくなります。退院されるとき、必ずしもすべての方を見送ることはできませんが、病衣から私服に着替えてエレベータに家族と一緒に乗り込む姿はとてもうれしそうです。
小柄で物静かな感じの人だった。77歳の佐藤さん(仮名)は、ある寒い日の午後、私の外来に発熱と呼吸苦で受診された。もともと肺気腫があり、呼吸機能は良くない。検査をすると、症状の主な原因が肺炎であることが分かった。しかし、それと同時に肺癌があることも。しかも、肺内に複数の転移があり、胸腔内リンパ節も腫れている。肝臓にも転移があった。明らかな進行肺癌。ひとまず、入院の上、発熱、呼吸苦症状を改善すべく、抗生剤治療を行うこととなった。そして、症状が落ち着いたころ、患者、および家族に病状説明をすることになった。
もはや外科手術の適応はなく、治療は放射線+抗癌剤治療。非常につらい治療だ。そして、もって1年の命。もし、この積極的な治療をしないのであれば、あと2-3か月の命。今後、痛み、呼吸苦症状が出現するようになるだろうから、積極的な治療を望まないのであれば麻薬による治療、いわゆる緩和治療を行うことになる。
詳細は省くが、佐藤さんは積極的な治療は望まないとのことであった。この重大な病状告知の際も特に取り乱すこともなく、静かに私の話を聞いていた。
その2週間後、退院ということになった。まだ、癌による痛み症状など軽度であり、飲み薬の麻薬を処方し、残された短い時間を家族と一緒に過ごしてもらうことにした。
退院の日、佐藤さんの表情はいつになく明るかった。人の好さそうな笑顔。奥さん、お子さん、お孫さん、家族のもとに帰るれることが、とても嬉しかったのだろう。帰る際、病棟のエレベーターの前で私に何度も頭を下げて、お礼を言っていた。
私は心の中で思った…「僕は言ったんだ。『佐藤さんの命はあと2-3か月です』って。あんな残酷なことを僕は言ったのに、佐藤さんは満面の笑顔で僕にお礼を言っている」…。私はただ、うなづくだけだった。
病棟のエレベータの前には本人と家族。そして病棟の看護婦さんたちが彼らをとり囲む。みんなでお見送りだ。看護婦さんたち皆が笑顔で手を振っている。それぞれが声をかけ、とても賑やかだ。だから患者さんもさらに笑顔になる。
でも、本当はみんなわかっている。ただ誰もそのことを言わないだけ。それがわかっているだけに、よけい、みんなの温かみ、優しさが伝わってくる。
病棟のエレベータ。
今日も来てまた去っていく。人々のいろんな想い、悲しみとやさしさをのせて。

